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上記の記事の京浜急行電鉄もそうだが、近畿と東海に路線を繰り広げる、近畿日本鉄道(以下、近鉄)も例に漏れず線路の幅を2度も変更した区間がある。それが、近鉄名古屋線「伊勢中川~江戸橋」間である。
近鉄の歴史は大変複雑なもので、いまや大規模な路線を有している私鉄なのだが、それは合併の繰り返しでできあがったもの。特に戦前のお伊勢参りへの路線拡張の際の熾烈な競争は今でも伝説として語られるほど。いったいなにがあったのか・・・。
wikipediaを見ると近鉄の歴史についてわかるのだが、近鉄の前身は、大きく2つに分けると、大阪(上本町)~宇治山田は大阪電気軌道の子会社である、参宮急行電鉄(以下、参急)、一方の桑名~大神宮前(のちに江戸橋~大神宮前間は不急不要路線として廃止)を伊勢電気鉄道(以下、伊勢電)に分けられる。
戦前、伊勢電は桑名から東、つまり名古屋を目指していた。ところが、参急も実は名古屋に向いていたそうなのだ。その一歩が1930年(昭和5年)5月18日に開通した「伊勢中川~江戸橋」間である。この時、参急の他の線に合わせ標準軌(1,435mm)を採用した。
一方の伊勢電は桑名から大神宮前(現在の内宮近く)で線路を開通させていた。
この参急とは江戸橋にて連絡しているのでそこで参急にバトンタッチすれば合理的に感じるが、世界恐慌が起こる前で、かつ鉄道建設ブームの真っ只中でもあり、両者とも引かなかった。
ところがこの後、世界恐慌が起こり、両者とも路線拡張の影響もあり、合併へとこぎつけるようになった。合併後は関西急行電鉄を経て現在の近鉄となる。この時、標準軌であった「伊勢中川~江戸橋」間は、旧伊勢電区間との乗り入れを考慮し、狭軌(1,067mm)へと改軌された。
同時に乗り換え拠点が伊勢中川となり、のちの念願の名古屋進出も叶い、現在の近鉄のネットワークの礎となった。
さて、戦後の1947年(昭和22年)には、大阪~名古屋間の特急の運転が開始された。
ところが、伊勢中川を境に名古屋方面とは線路の幅が違い、名阪間で移動する客は同駅での乗り換えを余儀なくされていた。
そうするや否や、名古屋線の標準軌拡幅工事が計画されるようになり、枕木も拡幅に対応できるように、あらかじめ犬釘用の穴を標準軌サイズで空けておいたりという準備もなされていた。
工事は順調に開始されたものの、途中で伊勢湾台風が来襲、工事は延期されると思いきや、当時の社長(佐伯勇氏)の英断により、復旧と同時に線路拡幅工事を行った。まさに災い転じて福となすというわけであった。この工事により、近鉄名古屋線は全線に渡り標準軌化され、神戸線(のちの鈴鹿線)や湯の山線も同時に線路の拡幅工事が行われた。現在の近鉄大ネットワークの完成である。
という形で近鉄は大きくなっていったのだが、やはり振り返ってみると伊勢中川~江戸橋間は2度線路の幅が変更されていることがわかる。この背景には、当時の鉄道建設ブームが加熱する一方で複雑な線形や乗り換えなど、盲点が見えてくる。
現在は鉄道を建設するにも廃止するにも世間からの注目がきちんとされているし、鉄道建設は今でも莫大な資金が必要となるため、鉄道会社も新線の建設は慎重になっている。
鉄道の敷設はその街のこれからを左右しかねない、大変重要な羅針盤であるといっても過言ではないだろう。
<写真は伊勢中川駅に停車中の京都ゆき特急>